~生まれ故郷 青森~


わたしの生まれ故郷は青森です。

自然の恵み豊かで、四季折々の彩りを感じることのできる、清らかな北国です。
津軽平野の東端に位置する青森市浪岡は、東に八甲田山、南西に岩木山が美しく、りんごやお米、そしてお水が美味しい豪雪地帯です。

わたしは印刷会社を営む父と、料理と裁縫上手な母との間に、2人兄弟の末っ子として生まれました。

自然に親しむことが大好きな父は週末になると、兄とわたしを山へ海へと連れていきました。
春は山菜採りに山へ分け入り、こごみ・わらび・ふき・細竹・たらの芽などを採りました。
初夏はミズやセリ。湧き水が出ている沢に入って泥を洗って持ち帰っては、育てました。
秋は、母が作るきのこの佃煮が大好物だったので意気揚々ときのこを収穫し、瓶詰めにしました。
他にも、祖父の畑でじゃがいもを掘ったり、年中海へと釣りをしにいったりと、いつも自然と共に育ってきたように思います。

旬の食材や季節感のあるメニューが大好きなわたしですが、ルーツは幼少時代にあったようです。
大いに自然に親しみ、旬の自然の恵をいただいて大きくなりました。
青森という田舎を存分に楽しむことのできる育て方をしてくれた両親には、本当に感謝しています。

料理上手な母への憧れの気持ちと、負担を減らしてあげたいという気持ちから、物心ついたころには自主的に料理のようなことをしていました。
作るものは常に自己流、思いつくがままにトライするので、中にはお菓子なのかおかずなのか判断し難い、作った自分も食べられないほどのひどいものもありました・・・。
しかし、どんなにへんてこな料理をわたしがこしらえようと、父も母も兄も、毎回必ず「おいしい」と言って食べてくれました。
一品作るために台所をぐちゃぐちゃにしても、母は「おかげで助かったわ、ありがとう」と褒めてくれました。
りんごの皮むきをして指を切っても、危ないからやめなさいと言わず、気が済むまでやらせてくれたのです。

こうして自己肯定感を高めたわたしは、「特技は料理!」と自負するようになりました。
ひとえに優しい家族が居てくれたおかげです。家族には「ありがとう」そして「ごめんなさい」と伝えたいです(笑)


~学生時代~

小学校の三年生の頃だったでしょうか。高校生ウルトラクイズに出場していた青森県代表チームが、調理のお題目に屈して、敗退するのをテレビで見ました。
その時のわたしは「これは料理上手なわたしが出るしか無い!」と妙な使命感に駆られ、その高校に入ることに決めたのです。そこは津軽一の進学校でしたが、それまで興味のなかった勉強が急に楽しくなり、中学も真面目に部活と勉強に励んだ結果、無事高校に合格することができました。
ちなみに、その頃には、ウルトラクイズに出たい気持ちはなくなっていましたが(笑)


憧れの高校に入学できたものの、次の進路は何も考えておらず、進学校らしい雰囲気に流されるまま、ひたすら勉強勉強の毎日を送る日々でした。
そんなある日、雑誌で目にした管理栄養士という職種が気になり、母親に相談してみたところ「えみには、お料理かお裁縫が合ってると思ってたわ~♪」とお墨付きを頂戴し、管理栄養士の養成校を目指すことにしました。中でも、漠然と臨床栄養に惹かれました。

東京には私立の立派な学校がたくさんありますが、"経済的都合から選択肢は国公立"、"家政学ではなく、医学的な栄養学が学べる学校"…と絞り込んでいくと、残ったものは10校も無く、どれも遠方の西日本にばかり点在していました。
「なんで青森からわざわざ長崎へ?!」と今日まで数えきれないほど聞かれた理由はこれです。

まさか九州に来ることになるなんて…と自分でもびっくりでしたが、栄養学科には文字通り、北は北海道、南は沖縄までの全国各地から同志が集まってきていました。
山に囲まれ、閉鎖的な津軽とは対照的に、古くから港が開け異文化を受け入れてきた長崎。お土地柄なのか長崎の人はオープンで明るい人が多く、よそ者のわたしを温かく歓迎してくれました。
勉強・実習・部活動・アルバイト・飲み会・短期留学など、四年間寝る間を惜しんでアクティブに過ごしました。
また、九州・長崎のおいしい食べ物や、街・文化・人が大好きになりました。それは、卒業後に九州に残ろうかとも考える程でした。

実は音楽活動に夢中だった頃でもあり、就職をするか、バンドをやるかでかなり悩んだ時期でもあります。
結局は「一度は就職したほうがいいよ」というゼミの先輩のアドバイスが心に響き、
どうせなら情報量の多い東京近郊に就職して勉強したほうが身になるだろう!と考え、神奈川県の病院に就職を決めましたが。


~就職を通して感じた苦悩~

田舎者のわたしにとって、都会というイメージが強かった神奈川ですが、箱根は深い山でした(笑)
勤務先は山の中にひっそり佇む、年季の入った療養型病院。厨房は直営式でした。
ベテランの調理師さんと共に、管理栄養士・栄養士が限られた条件の中で結束し、二人三脚で栄養科を回していました。

厨房の現場で調理をする日々が長く続く中、管理栄養士として採用されたはずのわたしが、患者さんのカルテではなく、食材に触っていることに次第に違和感を覚えました。
大学時代のクラスメートと情報交換するたび、同じタイミングで就職したみんなはもう病棟へ出て栄養管理業務を任されているのにくらべ、わたしは厨房で調理ばかり…何のために国家資格を取ったんだろう…と、キャリアに差が開いていくような感覚に焦り、もどかしくも思いました。当時のわたしは学校で学んできた知識を活かした仕事がしたくて仕方ない気持ちを抱えていたのです。

厨房での大量調理は重労働、仕事を終えて家に帰っては疲弊して眠る毎日で、食べても食べても太らないほどでした。
こんなにも調理の現場経験を積んだ同世代の管理栄養士はそうそういないのではないかと思います。
日々、大量調理の難しさに向き合いました。得意だと思っていた料理でしたが、知識も経験も食経験も全然足りないことを自覚しました。
食を提供する立場である以上、調理は最も重んじなければいけません。そうでなければ、おいしい給食を提供することはできないからです。
今思えば、本当に多くの学びがあった調理業務でした。

"口からの最後の食事"とされる嚥下困難食(ミキサー食やゼリー食)には特に多く携わりました。
自分が用意した食事を患者様が召し上がる、その姿をじっくり見させていただき、気づきをフィードバック、食事をブラッシュアップしていくというサイクルをひたすらに続けました。

厨房ではお膳しか見えませんでしたが、病棟に出ると患者様という人が見え、気づけば人から食事を考えることが出来るようになっていきました。
また、いつ最後になるかもわからない"口からの食事"をご用意する責任の大きさを、肌で感じました。
少しずつ栄養管理も任せてもえらえるようになると、自分が立てた栄養管理計画や自分が作った食事が、患者様の健康状態にダイレクトに反映していることを実感でき、大きな喜びをもって業務に専念するようになりました。

こうして培った経験は、今でも大切な糧となっています。

仕事への意欲を感じだした一方で、「もし今死んだら何を後悔するだろう?」と考えるようになりました。
今一度、自分を見つめ直し、原点に立ち返る中、自問自答をして出た答え。
それは、「もう一回音楽を本気でやる」という結論でした。
真っ当な人生のレールを逸脱した瞬間です(笑)



~第二の人生~

病院を退職したわたしは、あてもなく上京。
人脈も何もなかったため、バンドメンバー募集サイトを利用し、ベーシストを探している人にコンタクトをとってはスタジオに入り音を合わせてみたり、話し合って音楽の方向性を確認したりし続けました。地道な行動は功を奏し、いつしか私の身の回りには素晴らしいメンバー達の姿がありました。わたしは、彼らと歌ものロックバンドを結成し、下北沢や渋谷を中心として精力的に音楽活動を行うことになりました。

その間も、食に関わる仕事は継続、ビュッフェスタイルの洋食レストランや、百貨店のちょっと高級なお惣菜屋さんなどで調理や販売をしていました。

それまで、病院では患者様のための各種治療食・嚥下困難食など、栄養価や食材・やわらかさなどたくさんの制限がある中で食事を考えてきましたが、今度は選択の自由をもつ健康な人のための食事です。食材や調味料の制限や、調理法の制限も、お皿の決まりもありません。

食べたいものを好きに選ぶことができ、どんなものでも噛めて飲み込める健康な人は、たとえおいしいお料理でも盛り付けが美しくないだけで見向きもしないという状況を目の当たりにしました。「おいしそう!」と飛びきたくなる盛り付けやネーミングはどんなだろうといつも考えていました。

一方バンドのほうは、ツアーを回ったりCDをリリースしたりグッズを売りだしたりワンマンライブをしたりと、駆け足で活動していました。大きなロックフェスの出場権をかけたコンテストで入賞し、最終選考まで残ったこともありました(残念ながらフェス出場は逃しましたが…!)。でも音楽で食っていくなんて夢のまた夢。バンドやバイトで休みはなく、男勝りに頑張っていたら、いつのまにか体も心も健康では無くなってしまい、最後は完全燃焼のような、強制終了のような感じの終幕を迎えました。

音楽活動を一段落させてみたところ、やりたいと思うことが無くなってしまいました。
向かうべき目標が無いというかつてない状況で、人生の迷子になってしまい、地に足がつかずふわふわと毎日をただ過ごしていました。



~新たな夢~

優しい人達の励ましに、少しずつ元気をもらった私は、次第に「この人生をわたしらしく生きたい」と漠然とした熱意が湧き上がってきました。

自分が心から好きなことで、みんなに必要とされるもの…それは、やっぱり"食"でした。

シンプルにわたしが作った料理を食べて喜んでもらうということも考えましたが、その幸せはそこで途切れてしまいます。ならば幸せがもっと広がっていくような方法はないだろうか、そう考えたとき、料理を教えることが浮かびました。
「わたしが料理の仕方をみんなに教え、その人がおうちに帰って愛情あふれる料理で愛する家族を幸せにしてあげる」
そうして、幸せの波紋がどんどん広がっていき、世界にもっと愛があふれる、そんなビジョンが見えたのです。

「食を通して周りの人を幸せにしてあげられる人を育てよう!」
「美味しくて健康的で安心して食べられる、お母さんがつくってくれたような温かい家庭料理をつくれる人を増やそう!」

一度描き出した夢はますます広がり、「そうだ、起業しよう!」と思い立ったら行動は早く、お料理の家庭教師からスタートさせました。

お料理サロンrappleをオープンしてからは、お料理レッスンのみならず、栄養・健康に関する相談、レシピ開発、嚥下困難食コンサル、パーティー、コラボイベント開催など、食を通してみんなが笑顔になれる活動をさまざまに展開しています。

わたしがこれまでの人生で得た知識と経験、そしてパワフルな行動力をもって、世界中に愛と幸せの波紋を広げられるよう、これからも頑張っていきたいと思います!

rappleななめピンクギフ

ロゴマークのぞうさんが頭にのせているハート型のりんご(apple)は、栄養、健康、愛、総じて幸せを表しています。幸せが波紋(ripple)のように広がってくことを願い、rappleという造語をつくりました。


食を通して幸せの波紋を作り出せる人を育てます。

あなたの人生に、心を込めて関わります。


あなたが、あなたの周りにいる愛する人達を笑顔にしてあげられますように!




えみぞう こと さとうえみ



PS.ベーシストとしての活動も継続しております(*^^*)/

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